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村田珠光が形式を定めて以降、茶の湯は京を中心に主に西国で流行り、特に堺ではとても重要なものとなった。また、織田信長が論功行賞に取り入れた事により、武将達の間でも大流行した。 信長が茶器の価値を見出したのは、今井宗久らに名物茶器を献上されたのがきっかけだととされている。信長は茶器の市場価値を学び、茶器を蒐集し、家臣らが自由に茶の湯を開く事を禁じ、大きな功績があった家臣に対し褒美として茶器や茶の湯を開く許可を与えたりした。その結果、家臣らの中に茶器や茶の湯の許可を貰う事は一国一城をもらう事と同等以上であるという価値観が植え付けられた。 価値の有る茶器を集めた信長は、それらを披露する事により、富と権力を誇示する事にも成功した。 滝川一益は武田家殲滅の後、珠光小茄子という茶入を所望したが、信長は茶入も茶の湯の許可も与えず、代わりに上野一国、信濃の二郡及び関東管領職を与えた。一益はひどく落胆し残念がったという。 また、信長が手に出来なかった楢柴肩衝は、九州全土の石高に匹敵する価値があると言われていた。